なぜこの人に話をしてしまったんだろう、と悔いた。これまで仕事のやりとりを通して、そして同じ子を持つ母親として、もう少し気配りのできる人だと思っていたが、まるで恋愛話かなんかを聞くようなその軽い反応に、人としての興味も一挙に引いた。
長距離にいて、被災地の悲惨さを実感することは、確かに難しい。しかしせめて、言葉遣いぐらいに、最低限の配慮はできないものか。
西日本には、しかもかつて核の悲劇に見舞われた広島でさえ、こんな意識の人がいる。生死に向かい合い、真剣に考えている人に向かって、笑いながら「カッコイイ」とはしゃぐような・・・。彼女一人が悪いと言っているのではなく、被害地から遠く離れてしまうと、人間の意識など所詮こんな程度になり得る、ということを表している良い例だと思った。
電話を切ってから、とても不愉快になった。こんな嫌な気持ちは、久しぶりだった。
同時に、すぐに己を振り返った。自分も過去に、この人と同じようなことをしてきたんじゃなかったか。柏崎で放射能が漏れた時、私は「遠い新潟のこと」だと思い、それほどの危機感も持たずに、ニュースを見ていたんじゃなかったか。
北海道で大きな津波が1つの島を丸呑みした時にも、怖いとは思ったが、一瞬で生死を分かたれた人達の恐怖の1ミリでも、想像してみたことがあったのか。
自問すれば、決して彼女の軽い反応を責められない「過去の浅薄な意識の自分」が、そこにあった。
東京を挟んで、その東側と西側が、あまりにも違うことに気づいた。
北海道を除く東京の東側には、地震・津波で家族を亡くし、ガソリンの届かぬ避難所で今も凍死する人々がおり、放射能を恐れ、他県・他国へ非難した友人や、今も福島県に留まり地元民を支える取引先、そして今もまだ宅配便の届かない地域があり、
西側には、「ビーズの納品まだですか?」といつも通り急かす取引先と、生命の危険に怯える人の話を笑って聞く人がいる。
「同じ国なのか?」と思うほど違う。
今回たまたまボーダー辺りにいたことで味わった、初めての感覚だった。
今はまだ、福島原発の事故現場が深刻な状態にあるので、私はとても楽観した気持ちにはなれない。この先の食料事情や水・空気事情を心配しだしたら、キリがない。主人の祖国の家族には、夜も眠れぬ心配をかけ続けている。国家を牛耳る官僚と、アメリカに日本の富を差し出すための家来ばかりががん首揃えた現政府にも、不信が募る一方だ。東電や保安院の無責任ぶりなど、呆れて言葉にもならない。
こんな状況だが、我が家は1家4人、東京に踏みとどまり、今より事態が悪化しないことを強く信じて、いつも通りに暮らし続ける。意識が極端に違う、東京の東側とも西側とも、できる限り合わせてやっていきたい。
どちらも「私の祖国」であり、「日本」だ。
どちらの現状も、あるがままに受けとめたいと思う。
誰かに不平不満を感じるならば、それは己の一部を、他人を通して見せられているにすぎず、腹が立つ人・許せない人ほど、実は「自分への大切なメッセージ」を伝えているのだと、よく言いますね。
この言葉の深意も、今の機会にじっくり考えてみたい。
東西の格差も、しだいに縮まり、やがて1つになりますように。
最後に、悩んだあげく、以下の情報を提供します。
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遺体安置所の写真
ここにリンクされているすべての写真を、クリックしてご覧になって下さい。特に(北海道と)東京より西方面にお住まいの皆様。「なんだか実感わかないワ〜」と思っていた方、少しは伝わりますか?あなたの住む、同じ国で、起こったことですよ。
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「19兆円の請求書」止まらない核燃料サイクル
こんな悲劇が起きても、なぜまだ「原発推進派」が「今度は震度7でも壊れない原発施設を!」と言っているのか、少しだけわかります。
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神秘の杜
これを書いている人を全く存じ上げませんが、被災地から遠く離れた場所から、実に的確に、現状を分析・報告して下さってます。興味あるタイトルをクリックして、読み進めて下さい。日本が「国難に遭っている」ことに、気づいて下さい。
被災地から遠く離れた場所で、時間のある人は、ハリソン・フォード主演の「K19」という映画を、レンタルして見て下さい。わかりやすく言えば、あの映画の中でのことが、今福島で起きているのです。
それから上記で心を動かされて、「何かしたい!」と思われたなら、
「とりあえず金を出す」ことがすべてでもないことに、気づいて下さい。お金が、正しく、本当に必要な人に届くとは限りません。
でも私達の「心」は、「祈り」は、必ず届きます
誰にも邪魔も、ピンハネもされません。
「イメージすること」が大事です。私達の「祈り」を、「愛」を、届けたい場所・人々を具体的にイメージしながら、短い時間でもいいから、心を鎮めてやってみましょう。うまく届いた時は、やった後にお腹が空きますよ。私がそうなんです。
真剣に20〜30分祈ると、1時間半ぐらいのジョギングか、1時間の武道の稽古に相当するエネルギーが、私の中から消耗されます。「気は届くんだ!」と実感します。
一人でも多くの人がともにやれば、被災地や原発事故現場に、より多くの「奇跡の愛の気」が降り注ぐのだと、私は信じています。