まもなく、あの恐ろしい大地震から1年がたとうとしています。
9.11の時よりはずっと早く、この「天災に見せかけたテロ」についての真実が、人々に知られようとしています。
あんなに短い時間で3万人超の人の命をもっていってしまった災害ですが、本当に多くの、これまで「隠され続けてきた闇の部分」に、光があたるようになったことも事実です。
友人から、こんな記事を教えてもらいました。友人が「しみじみ読んだ」と言っていましたが、私も、しみじみ読みました。
原発収束作業の現場から ある運動家の報告
原子力施設を使って発電する場合、メンテナンスには必ず被曝しながら作業をする人が必要で、昨年のようなひどい事故が起きた場合には、数多くの人が、通常よりずっと多い被曝をしながら作業にあたらねば、冷却を続けることができない。
都会で「原発はんたい!」とやみくもに叫ぶ人の中に、「私も被曝しながら冷却作業を手伝うよ、だから一刻も早くやめよう!」と思っている人はいまい。即時停止とか、言うのはカンタン。でも現実には、これから日本中にある全ての原発を安全に始末していくには、何十年もかかる。幾世代か、かかる話なのだ。(その間に、原発施設のあるどこかの地域で、絶対に大地震が起こらないとは、誰にも言えない。)
上記記事より、最も印象に残った部分を抜粋します。
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「廃炉にしろ」と、東京の運動が盛り上がっているんですけど、語弊を恐れずいえば、特定の原発労働者、8万人弱の原発労働者に、「死ね、死ね」って言っているのと同じなんですよね。「高線量浴びて死ね」と。自分たちは安全な場所で「廃炉にしろ」と言っているわけですから。
原発労働者を犠牲に差し出すみたいな構造が、反原発運動に見られると思います。
そういう乖離した状況があるので、福島現地や原発労働者の人と、東京の人が同じ意識に立って反原発・脱原発の方向になることが簡単ではないと感じています。
―― 廃炉というテーマに、自らの問題として向き合う必要があると。
そうですね。廃炉という問題にたいして、みんなが少しずつ浴びてでも作業をするのか、「いや、原発反対なんだから作業もしないよ」というのか。「被ばく労働なんてごめんだ」といってしまうと、では廃炉の作業はどうするのか。東北の人に押しつけるという意味でしかないですね。
希望的理想的に言えば、1人が100ミリシーベルトを浴びるんじゃなくて、100人で1ミリシーベルトを浴びようよと。
しかし、現実的には、みんなが、そういう気持ちになるというわけはいかないと思います。
とすると、2つ道があります。
1つは、原発労働に従事するからには、被ばくするわけだから、「健康の問題について、一生、見ます。もし何かあったときは補償もします。賃金も高遇します」という風にするべきです。もちろん中抜きはありませんよ。準国家公務員みたいな形で雇ってね。
もしくは、2つ目は、徴兵制みたいに、「何月何日生まれの何歳以上の人は、ここで1週間、被ばく作業をして下さい」みたいに強制的にやるか。
後者は、すごくいやなんですけど、でも僕が、実際に原発労働をして思ったのは、これは、反原発運動をやっている人は、全員やったほうがいいんじゃないかなということです。
反原発だけではなくても、もしそこで原発の電気で恩恵をこうむっているんだったら、やるべきなのでないかという気持ちになっています。
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ぽちっとスイッチをつければ、電気がつく日本。
電気がなければ、生活や仕事のほとんどが成り立たない私達の暮らし。
でもそれは、命とひきかえに(低賃金で働く)原発労働者たちの犠牲があってのことだったとは、昨年の福島での事故まで、多くの日本人が知らなかった・考えたこともなかったことであろう。
世界一高い電気代を払わされている日本人。私達の払ったものすごい電気代は、過酷な被曝労働者たちには届かない。電力会社の(マスコミ懐柔のためにバラまかれる)巨大な広告費や、マスコミの偉い人達への旅行つき接待や、政治家への献金や、電力会社と被曝労働者の間に幾重にも存在する下請け会社へのピンハネとなって消えてゆく。
税金よりも取りっぱぐれのない「電気代」ーこの強制徴収こそが、巨大な闇の利権を生み出していた。この電気代を、4月から、7月から、また上げるという。でももう、そんな簡単にはいくまい。日本は、変わり始めている。